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編者 喬富(キェウフー)による後書きです。
口伝えの記録をある程度まとめて、削除したところもあること
中国の伝奇と同様の価値があることなどを記しています。

後書き

 ああ、通常の話はすべて経書(道徳の本)、史書(歴史の本)に記され、後々まで伝わり人々を諭す。しかし、奇怪で不思議な話は伝奇の中に記され、異聞が広がる。
 したがって、禹、夏、殷、周代の話はすべて書物に記録され、漢、唐、宋、元代の話も歴史に明確に記録されている。その一方で、河で遊ぶ老人(236)、雲をまとい大地を走る龍(237)、村に鳴り響く太鼓(238)、赤い書を握る雀(239)の事など、不思議な話のそれぞれが、足りない所を補うために存在している。

※中国の伝説
河で遊ぶ老人:堯(ギェウ)王と舜(トゥアン)王は5人の老人に会い予言を聞いたという伝説。
河図洛書:黄河の龍馬の背に地図があり、洛河の亀の背に書があったと言う伝説。
鼓腹撃壌(こふくげきじょう):世が平和で庶民が楽しく暮らしているのを堯(ギェウ)王が確認したという伝説。
赤い雀の書:周の文王が生まれる時に、「徳あれば百代まで受け継がれる」と言う書を持つ赤い雀がいた。


 漢朝の武帝(240)の内輪話、唐朝の天宝(ティエンバオ)(241)の話、宋朝の宮廷の生活の中やのどかな村で記録された多くの物語、これらの不思議な物語が、その時代に記され集められ、また閲覧できるようになっているのはなぜだろうか。

漢武帝内伝(Hán Vũ Đế nội truyện):武帝についての小説
天宝遺事(di sự Thiên Bảo):楊貴妃などについて書いた小説
宋朝物語:口語の小説のことか?

 わが国は、十二使君時代の前までは、文明や決まりが十分に明確ではなかった。しかし、国家の元の多くの故事は、速水通鑑(242)の中や、朝廷史の中に常に記されている。

十二使君時代:950~967年の内乱の時代、その後丁朝となる
速水通鑑(Thốc thuỷ thông giám):中国の司馬光(Tư Mỡ Quang)が書いた歴史書。資治通鑑(Tư trị thông giám)の事。

 山河や人物の不思議な話までは、歴史の書物の中には記されていない。しかし口伝えの話はまちがいではない。そして後世の博学者たちがその話を集め編纂し話を完成させた。わかる限るのすべての本を集め、バラバラになっているものを集め、未完成の点を補って完成させた。これらの素晴らしく崇高な事業には多くの重要な意味がある。

 なんと言うことだろう。天は不思議な玄鳥(ツバメ)を降臨させ、殷朝(243)の王が生まれ、百個の卵が孵化して息子たちになり、南の国を支配した。鴻龐(ホンバン)氏の物語は消える事はない。

王の夫人の1人 簡狄(かんてき)が玄鳥(ツバメ)の落とした卵を飲んで息子を産み子孫が殷朝の始祖となったと言う話。

 水牛の尻尾でいるより鶏の頭である方がいいので、趙(チェウ)氏の子孫は北の朝廷に反逆した。また南詔(ナムチェウ)の話を無視することはできない。

 河の水は周りを流れて、昇龍(タンロン)に集まる。蘇瀝(トーリック)川の物語は都の姿を美しく描くではないか。
 戦いの勝利は、石弓の引き金の秘密があばかれたからで、金亀(キムクイ)の物語が書かれたのは、忘れて危険を招いた安陽王(アンズォンヴォン)への批判なのか。
 人々への害を除いた、魚の精、狐の精そして木の精の物語も書かれている。
 バインチュン、龍眼、白鶴の物語では臣子の道徳をはっきりと語っている。
 董王(ドンヴォン)、翁仲(オンチョン)は敵と戦い帰還して名誉を与えられた。
 スイカ、キンマは人々に利益をもたらすことで名声を得た。
 一夜沢(ニャットザチャック)、越井岡(ヴィェットティンクオン)の話は、善をなせば陰徳陽報の報いがあるので、このように進むよう諭す。
 曰烏雷(ハーオーロイ)、夜叉(ザトア)王の話は好色な欲望のために、身を滅ぼし、国を失い、そうして私たちに警告している。
 傘圓(タンビェン)が官に逆らった話、媚娘(マンヌォン)が雨が降るように祈った話、徐道行(トゥダオハイン)が父の復讐を果たした話、阮明空(グエンミンコン)が王の病気を治す話、また楊空路(ズオンコンロ)、阮覺海(グェンザックハイ)のは龍を捕まえて落下させたり、ヤモリを動けなくして落下させる法術など、すべてが法術の精巧さを示している。
 よくあるある話ではないが、痕跡はよく残っているのだから、賞賛してもよいのではないだろうか。
 しかし、傘圓(タンビェン)の神は嫗姫(オーコー)の息子で、董天王(ドンティエンヴォン)は龍君(ロンクァン)の生まれ変わり、李翁仲(リーオンチョン)は死んだふりをしたと語る事に対しては、この愚か者は疑問を感じて正しくないと考えた。
 古い話では、伊尹(イードアン)はなますを使って料理を作り、湯(タン)王に取り入り、百里奚(バックリーヘー)は羊の皮5枚の取引をして、穆公(ムックコン)(244)に取り入ったと語る。もし孟子(マントゥ)がいて弁明しなければ、2人とも汚名をおったままであっただろう。

 あらためて言うが、傘圓(タンビェン)は豊かな自然の神、董天王(ドンティエンヴォン)は天の将軍、李翁仲(リーオンチョン)稀代の天才、どうしたとしても、このように書くことができるだろう。
 したがって、この愚か者は他の本を参照し、自身の考えを追加し、それらを修正し、過去の間違った言葉を修正した。
 後の時代の嘲笑を回避し、煩雑な場所を単純にし、持ち運びに便利な見やすい本にした。博学君子の皆さんが、この冒涜の罪を許してくださいますように。

洪徳24年(246)、癸丑(クイスウ みずのとうし)、孟秋(マイントゥ 初秋)
乙未(アットムイ)科進士 喬富(キェウフー)、すなわちヒェウレー 監修

序言 Lời tựa

 桂海(クエハイ)は嶺南(リンナム) の地にあり、そこには不思議な山河、霊的な土地、勇敢な人々、神や異人の事跡がいつも存在している。

 春秋時代、戦国期の以前、古代からそう遠くない頃、南の人々の風俗は簡素なままで、記録する国史がなく、多くの話が忘れられてしまった。しかし 幸いなことには、失われていない物語は人々の口伝えによって受け継がれた。その後、両漢、三国、東西晋,唐、宋、元、明の時代を経て、嶺南志(リンナムチー)、交州廣記(ザオチャウクアンキー)、交趾略志(ザオチールックチー)などの書が書かれて伝えられ、参考になる多くの本がある。しかし、わがベトナム国は元々が未開発の地であるために、その記載は簡単で大雑把である。

 わが国は、フンヴォン(雄王)によって始まり、文明化され、吳朝、丁朝、黎朝、李朝、陳朝を経て現在に至っては規則化されているため、国家の歴史の記録は詳細を極めている。しかし、この嶺南摭怪に書かれている話は史実なのか、いつの時代に書かれたのか、完成させた人物の名前は誰か、それらすべては明らかではない。

 最初にこれを書き起こしたのは、李朝、陳朝の博識のある人である。そして、古きを好む博雅の士たちが脚色を行った。愚か者のこの私は、この本の根源を研究し、陳述し、書いた人の意図を推察して明らかにしたいのである。

 鴻龐(ホンバン)氏傳を見ると、ベトナム王朝が開かれた理由が明らかになる。夜叉(ザートア)王傳では、占城(チャンパ)の起こりをまとめている。白雉(バックチー)傳は、越裳(ビェットトゥォン)氏の事跡を記し、金龜(ズアバン)傳は安陽王(アンズォンヴォン)の歴史を記している。

 南の国で結納における最も大事な物はキンマの他にはなく、(17)それをもって、 夫妻の道義、兄弟愛の意味を示している。南越国の夏には、スイカほど貴重なものはない。この話は自身の宝物によって、主人の恩を顧みない事を語る。

 蒸餅(バインチュン)傳は親孝行を祝う。烏雷(オーロイ)傳は、淫行を戒める。

 董天王(ドンティエンブォン)は殷(アン)の敵を倒し、李翁仲(リーオンチョン)は匈奴を倒し、南に才能のある人がいる事を知らしめた。褚童子(チュドントゥ)は仙容(ティエンズン)と出会った。崔偉(トォイヴィー)は仙客(仙人)と遭遇し、善と陰を見ることができるようになった。

 道行(ダオハイン)、孔路(コンロ)の物語では、父親の仇を取ることが賞賛され、神僧たちは敵を消し去ることができるのか。

 魚精(グーティン)傳、狐精(ホーティン)傳では龍君(ロンクァン)に妖怪を追い払う力があることを示している事を忘れることはできない。徴(チュン)姉妹は忠誠を尽くし死んで、神に転生させられ、節烈の旗を高く掲げる。誰がそうでないと言えようか。傘圓(タンビェン)は神聖であり、水族をしりぞけるその美徳は明らかだ。そうではないと誰が言えよう。

 ああ、趙武(チェウブー)の後代の南詔(ナムチェウ)は国を失い復讐をした。媚娘(マンヌォン)は木の仏の母親で、干ばつの年に雨を降らせる。蘇瀝(トーリック)は龍肚(ロンド)の地の守り神だ。猖狂(スオンクアン)は栴檀の精で、祭壇を築いて拝むならば、人々に福を与え、一方で術を使う代わりに、人々を危険から救う。この事は奇妙だが不思議ではない。文章は神秘的だが、でたらめではない。多くの話は荒唐無稽の話のようだが、痕跡にはまだいくつかの証拠がある。

 善行をすすめ、悪を罰し、虚偽を廃し、真に従し、その風俗を奨励しているではないか。 考えてみるなら、晋代の書「搜神記(そうじんき)」や唐人の書「幽怪錄(ゆうかいろく)」と同様の書である。

 ああ!嶺南(リンナム)列伝は、なぜ石に彫られず、竹に刻まれず、口から口へと伝えられたのか。まだ頭の青い子どもから白髪の老人まで、誰もがこれを愛し、賞賛して言い伝えてきた。これを持って戒め、道徳や風習と結びついた。少ない利益ではまったくない。

 洪德の仲春、壬子(みずのえね)2月、この愚か者の私は古い話を書き写し、抱き、そして読んだ。字の校正は避けられないと考えて、自分の無知を忘れて修正し、それを2巻にまとめ、「嶺南摭怪(リンナムチッククアイ)列伝」と名付け、閲覧しやすいように自宅で保管した。考証を行い、脚色を行い、話を整理し、文章を校正し、言葉を吟味し、意味を精査した。後世の古きを好む君子たちで、喜んでくれる人がますように。
 ここに序言を記します。

中和節、春
洪徳23年(1492)
武瓊(ブークイン)