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第2巻第16話 南詔(ナムチェウ)の伝説

・南詔(ナムチェウ)人たちが、あちこちで戦い、国を作ったり、国が滅びたりする話
・南詔(ナムチェウ)は中国の西南部から、一時は東南アジアに広がった国
・南詔(ナムチェウ)軍は、待ち伏せなどゲリラ戦や略奪が得意なようです。

●呂嘉(ルーザー)が漢の使者を殺し、南詔(ナムチェウ)は橫山(ホアンソン)に
 南詔(ナムチェウ)人は,趙佗(チェウダー)武帝の子孫です。漢(ハン)武帝の時代、南越(ナムビェット)の首相は呂嘉(ルーザー)で、漢(ハン)の使者のである安国の少季(ティェウクイ)に従わずに殺害しました。漢(ハン)武帝は路博德(ロバックドック)と楊僕(ズンファック)を将軍に命じて、将兵を遠征させ、擒衞陽王(ベズォンブォン)建德(キエンドック)と呂嘉(ルーザー)を打ち、国を併合し、軍に各地を支配させました。
 趙(チェウ)氏の子孫たちは四方に散り、その後、神符(タンフー)に戻りました。橫山(ホアンソン)は人のいない荒れた土地でした。配下が増えてくると、船を作って、時には海に出て敵の地域に侵入し、海辺の人々を脅して物を取り、漢(ハン)朝の役人を殺しました。
 人々は南趙(ナムチェウ)と呼び、恐れて従いました。後に転じて南詔(ナムチェウ)と呼ぶようになり、(尊い血筋の名前なので)この呼び名を使うようになりました。

●南詔(ナムチェウ)軍の支配
 呉朝の時代になると、孫權(トンクェン)が戴良(ダイルオン)と戴良(ルーダイ)を長官に命じてを敵を討って治めるために送りました。天擒(ティエンカム)山から、河華(ハーホア)、高望(カオボン)、橫山(ホアンソン)、烏踦(アトゥン)、海岸(ハイガン)、望蓋(スーボ)、長沙(チュオンサー)、桂海(クエハイ)、望蓋(ボンカイ)、磊雷(ロイロイ)まで、高い山広い海、波高く険しい所、人の足跡もないような所まで、南詔(ナムチェウ)軍がいない所はありません。南詔(ナムチェウ)軍はそこでしばしば略奪を行って暮らし、長官と戦って殺し、それをやめさせることはできませんでした。この人々はだんだんと繁栄し、しばしば多くの財貨や珠玉を賄賂として西婆夜(タイバーザ)国に送り、お互い親密にいて助け合うことを求めました。

●晋(タン)の退却、南詔(ナムチェウ)国を作る
 晋(タン)朝の終わりには天下が混乱しました。趙翁李(チェウオンリー)という酋長は、趙佗(チェウダー)武帝の子孫で、多くの兄弟があり、皆優れて勇敢でした。誰もがかれに従い、南詔(ナムチェウ)軍は共に結集し、2万人以上の人々が、珠玉を西婆夜(タイバーザ)国に持って行き、近くの空いている土地に住む場所を求めました。
 当時、西婆夜(タイバーザ)国は、海浜と平野を均等に分割して、2本の道路を敷いていました。1つの道は 上は貴州(クイチャウ)から下は演州(ジエンチャウ)までで、嘉遠(ザービエン)路と呼ばれていました。水牛を殺してその血で宣誓を行い、そこを南詔(ナムチェウ)国に渡し、趙翁李(チェウオンリー)が支配しました。
 その後、翁李(オンリー)は、演州(ジエンチャウ)高舍(カオサー)鄉に町を築き、東は夾海(ザップハーイ)まで、西は婆夜(バーザ)国、南は橫山(ホアンソン)までを支配する王となりました。
 東晋(ドンタン)朝は、曹耳(タオニー)を将軍に命じ将兵を派遣して攻めました。翁李(オンリー)は川の上流の険しい場所で将兵を待ち伏せさせて戦い、その後、海に出て連山(ミーソン)と末山(マットソン)に隠れました。敵が集まれば自分たちは分散し、敵が別れれば自分たちが集まり、朝に出て暮れに入り、4、5年間持ちこたえました。晉(タン)軍は山の嵐に耐えることができず、半数以上が死亡し、退却しました。

●南詔(ナムチェウ)の退却
 南詔(ナムチェウ)軍がしばしば南城(ナムタイン)、東城(ドンタイン)、長安(チュンアン)の各所を侵略して略奪するので、長官は制御することができませんでした。唐朝が繁栄すると、懿宗(イートン)帝が高駢(カオビェン)に命じ、将兵を連れて戦うように命じましたが、しかし勝つことはできずに戻りました。
 晉朝五代の王石敬塘(タックキンドゥオン)は司馬李(トゥマーリー)に命じ、塗山(ドーソン)を攻撃するために20万人の軍隊を送りました。南詔(ナムチェウ)軍は退却して、哀牢(アイラオ)国を頼み国境の地に行きました。盆蠻(ボンマン)国の頭橫模(ダウホアンモ)という所です。常に略奪を職業とし、攻撃する時休む時も、平和であることはありません。その土地は現在鎮寧(チャンニン)府であり、大越国の地図にずっと記載されています。