第2巻11話 李翁仲(リーオンチョン)の伝説
暴れん坊で困った李(リー)が、戦争で功を上げて将軍になるも、いやになって国に帰り、中国の皇帝の召喚も無視していたら、やっぱり死ぬことになる話
乱暴者が出世する話多いですね
雄王(フンヴォン)の治世の終わり頃、交趾(ザオチー)の地の慈廉(トゥリエム)県瑞香(トゥイフォン)村に李(リー)という名の人がいて、生まれたから非常に大きく、背丈は2丈3尺でした。
性質が凶暴で、よく人を殺し、死に値する罪をもっていました。雄王(フンヴォン)はその力を惜しんで罰することをしませんでした。
安陽王(アンズォンヴォン)の治世になると、北の秦始皇(タントゥイホアン)は、軍隊を強くして戦うことを望んでいました。安陽王(アンズォンヴォン)は李身(リータン)を連れて来て、泰(タン)朝に捧げました。始皇(トゥイホアン)は非常に喜び、彼を司隸校尉(しれいこうい 奴隷などの監督官)に任命しました。
始皇(トゥイホアン)が天下を取ると、李(リー)に、軍隊を連れて臨洮(ラムタオ)の土地を守るよう命令しました。彼の名は匈奴(フンノ)にとどろいていて、かれらはあえて国境に侵入することはしませんでした。
始皇(トゥイホアン)は李(リー)に輔信侯(フティンハウ)の地位を与え、さらに王女と結婚させました。(すなわち皇妃白淨宮で、六世の代に生まれ、正月10日に亡くなりました。)年を取ると、彼は国に戻りました。
匈奴(フンノ)は再び国境から侵入しました。始皇(トゥイホアン)は、李身(リータン)のことを思い出し、人を使わして来るようにしました。李身(リータン)は行くのがいやで、山中に隠れました。秦王(ブアタン)はこれを責めましたが、安陽王(アンズォンヴォン)は彼を探し出すことができず、李(リー)が死んだと嘘をつきました。
秦王(ブアタン)が、なぜ死んだのか聞くと、コレラのためと答えました。秦王(ブアタン)は調べるために使者を送りました。安陽王(アンズォンヴォン)は、お粥を煮てそれを地面に注いで証拠を作りました。秦王(ブアタン)は遺体を持ってくることを要求し、李身(リータン)はしかたなく自死しました(その日は2月2日でした。)
安陽王(アンズォンヴォン)は、水銀を死体に塗って秦王(ブアタン)に渡すように命じました。始皇(トゥイホアン)は驚いて、銅の像を鋳造し、翁仲(オンチョン)と名付け、運んで咸陽(ハムズゥオン)の地の金馬(キムマ)門の外に建てました。
像の中には人が何十人か隠れていて、これを揺すって動かします。匈奴(フンノ)はそれを見て、像は生きている将校だと思い、あえて国境はおかしませんでした。
唐の時代になって、趙昌(チェウスォン)は交州(ザオチャオ)に渡り、南を守る都護(とご)となりました。夜、夢の中で李身(リータン)が「春秋(スアントゥ)」と「左伝(ターチュエン)」の本について話しました。彼の古い家を訪ねる機会があったので、彼を祀る社を建てました。
後に、高駢(カオビエン)が南詔(ナムチェウ)の敵を打ち負かした時には、李(リー)の霊が降臨して助けました。高駢(カオビエン)は社を修理し、木で彫像を彫り、李(リー)校尉(こうい)の祠と名付けました。今は慈廉(トゥリェム)県の瑞香(トゥイフン)村にあります。(かつては市現(トゥイハム?村)と呼び、今は瑞香(トゥイフン)村と呼びます。)城塞から15里のカイ川のほとりにあります。
今日も祭礼は最も霊的な社で、毎年恒例の春祭りが行われる國威府の近くにあります。
このような詩があります
文武に優れた偉大な人、
咸陽(ハムズン)に像を残し、胡の群れを鎮め
永著(ビンクォン)で、夢に入り込み経を語り
南天の強大な帝国で祀られる